ただ、そこに在るだけで素晴らしい

何度も見ているはずの大樹なのに、
季節が変わり、あたりの葉の茂り方や色合い
も変化したからか、この木がドーンと目に入
ってきた。

思わず、「あれ、こんな木あったっけ?!」
と、おとぼけクエスチョンが浮かぶ。

こんな大樹、急に生えてくるワケがないし、
どこからか移植されるワケもありません(巨大すぎて運べないよ 笑)!
夏のように青々と生い茂る葉がないからか、
イイ感じに光が差し込んでいたからか、
圧倒的な存在感に、ただただ惹きつけられて
しまった。

木の横にあったプレートの解説を見ると、こ
の木の樹齢は推定120年以上とのこと。

ただ、存在しているだけで素晴らしいなぁ。


長い年月を掛けて築かれた、この存在感や世界観(雰囲気)に触れ、そんな思いが湧いてきた。

人間社会にいると、「存在の価値」より「何ができるかの価値」で評価されることが多いじゃないですか。

いるだけで素晴らしいだよ✨とか、言われても、
学校では勉強はもとより生活態度まで一定基準のモノサシで評価され、
仕事では当然ながら成果で評価され、
家庭でさえも、実は、色々な出来たできない(または、迷惑を掛けた掛けない)で、無意識のうちに評価をし合っている。

だから、「いるだけで素晴らしい」なんて分かっていても、美辞麗句として捉えてしまうことが多い。

木を見ていたら、昨年93歳で亡くなった大好きな祖母のことを思い出した。

93年間の月日を掛けて作り上げられた祖母の存在は、色々な経験、思い出、感情、知識、知恵などが積み重なってできた歴史があった。

年々、体が思うように動かなくなり車椅子生活になってしまったけれど、親族にとっては祖母の価値は変わらない。
皆んなのシンボルのような存在だった。

木でも人でも、
月日を重ねた生命体の存在は、歳下のものたちに安心感やこれから歩む先の未来のことを教えてくれるのかもしれない。

月日を重ねていない生命体、つまり若い生命体は、周囲に初々しさやエネルギーを分け与えてくれるのかもしれない。
または、自分が面倒を見てもらうことで、そのケアをしてくれた人に対し、あなたの存在が必要だよと逆に活かしてくれているのかもしれない。

だから、ただ、そこに在るだけでいいんだよ、素晴らしいのかもね。

なんてことを、木を眺めながら感じておりました〜。

この大樹は、新宿御苑におりますよー。
新宿門を入ってすぐ右手です。

ふらっと旅人 / Flat Tabibito

どこか遠くへ、 「ふらっと」旅をした時のこと。 日々の暮らしの中でも、 「ふらっと」入った新しいお店、 「ふらっと」気の向くままに歩いて巡り合った景色。 遠くのどこかも、すぐ近くのあの場所も、 私にとっては同じ旅をすること。 「ふらっと」軽やかな気持ちで、そして、日常も、非日常と捉えられがちな旅先も、実はひとつながりなのだよ、という意味を「flat」に込めて、綴っていきます。

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