よく生きるための学び

今回は、「学び」というキーワードで、人生のキーポイントを振り返りたいと思います。

ただ、キーワードは「学び」と書いておきながらしっくりきていません(笑)。

それは、時と場合によっては、「教育」「勉強」「学習」という言葉の方が当てはまるのかもしれないと思うから。

けれど、上に書いた3つの単語、私、

でぇぇぇ〜っきれぇぇぃ、だぁヨォォ!!

(゚ω゚)!

何か違うキャラが一瞬登場して、驚かせちゃってゴメンなさい(笑)。

多くの方もそうかもしれませんが、「勉強」と言葉を聞くと、嫌い!!堅苦しい!!とか連想する方が多いのではないのでしょうか?

ハッピーな気持ちには、あまりならない。

あと、「ガリ勉」とか熱心に学ぶ人に対するネガティヴな表現もあるしね。

けれどさ、よく親御さんって「子供のため」とか言って、自分のことは棚に上げておいて、やらせるよね〜、子供には( ̄^ ̄) 

…あ、今日語りたい論点はそこではなかった。


戻ります。


大学生になった頃からか、社会人になってからの方がより強く感じるようになったと思いますが、今まで受けてきた教育、もっと細かく言うならば学校教育での教授法は何だったのだろうか?と。

特に不登校になるなどは一切なく、いわゆる「フツー」に通っていたけれど、なんか学校システムで好きになれないところがたくさんありました。
そして、大学以降、その特殊システムを離れて、初めて、違和感すら持たなかった自分に驚愕したりもしました。

例えば、集会での「休め」ポーズ、「前へならえ」、運動会の時などの「行進」。
子供の時は、ピシッと揃うのがカッコいい!とか、整うのがいいよね♫なんて思ってたんです。

大学生となり、兄弟の運動会で久しぶりに母校へ行って、入場行進を見ていたら、「うぇぇー!これ軍隊じゃん!」と、自分もやっていたことに、今さらながらに驚きました。

みんな同じが当たり前。
みんな違っちゃ、それじゃダメ。
知らず知らず、空気のように刷り込まれてきたんだなぁ、と感じました。

もちろん、集団生活を身につけるとか、この教育の良い面もあるのだろうから頭ごなしにに否定はできませんが。

そして、中高生になると、「全ての道はローマに通じる」の如く「全ての学びは大学受験につながる」のような学習体制になっている。

私自身、新しいことを知ることが好きだったし、学ぶことで広い世界を知れて救われたのもあり、いわゆる客観的に見たら「勉強が好きな子」だったかもしれません。

けれど、受験勉強のための詰め込み授業は、本当に嫌いだった。

そして、頭ごなしに「常識」や「知識」を、ご丁寧に詰め込もうとしてくる教師たちも嫌だったね〜。

ある人が言っていた言葉を借りるならば、「今の学校は洗脳機関だと思うの」。

大学生になり、真の学ぶことの楽しさを味わえた気がしました。

自分の好きなことをとことん追求できる、おもしろさ。

studyの語源は、ワクワクすることを学ぶことだとか。

だから別に、いわゆる学校機関で用意されている科目を学ぶことだけが勉強ではない。

自分が興味あることだったら、自然と誰もが学びを深めているはずです。

例えば、極端な例だけれど、極道の道に興味があるとして、その道に入りたいと思うじゃないですが。そしたら、どんな人と知り合えばいいか、どんな生活を送るのか、なにを着るのかとか情報収集したりして、ある程度、詳しくなるじゃないですが。
私は、それも立派な学びだと思うのです。

〜〜

あと、大学一年生の頃に、英語クラスのカナダ人の先生とお喋りをしていた時のことなのですが、前後の脈絡は完全に忘れたのですが(笑)、「日本人は可哀想だと思うの。だって大学などでて、一度社会人になってしまうと学び直せない。人生をやり直すことがすごく難しいから。」みたいなことを言っていて、社会に出ていない私にとっては、やく理解できず、「え?!私たちは可哀想?ハァ??」と蔑まれているような感覚しか持てずにいたのです。

その先生はプロのダンサーをかつてはしていたそうなのですが、怪我をしてダンサーとして生きていくことが難しくなったそう。だから、再度、大学に戻り、英語教授法を学び、日本などの海外で英語を教える道に進んだのだとか。

一度、社会に出ると、人生の進路変更をして、生きる分野を変えたり、また学校に戻ったりすることは、最近は増えてきたけれど、それでも日本全体で捉えたら、まだまだ「奇特な方ね〜」「勉強が好きなのね〜」という目で見られることが多いと思います。

私自身も、まさに「奇特な方ね」コースを歩んできましたが(笑)、周囲の環境もそんな感じだったので、私にとっては「フツー」だったからこそできたのだと思います。

個人的には、社会人になってから、または大人になって色々経験すると、新たな知りたい欲求や願望が出てくると思うのです。
そういう時の学びの方が、ある意味、学生時代よりも楽しく深く身につくと思います。

そして、学びたい時に、病気をしていたとか、経済的に難しかったとか、何か理由があって、学ぶタイミングを外してしまった人もいると思うのです。

学ぶって、豊かに生きるため、幸せに生きるためにあると思います。

だから、学びたいものが出てきたら、もっと気軽に学べるように社会がなればいいと思う。

学び直しや、人生の進路変更に対しても、肯定的に受け止めてくれる空気感が社会に増えれば良いと思っています。

カルチャー教室、お稽古ごと、多種多様なセミナーは市民権を得ていると思いますが、なんだろう、うまく言えてないかもしれないのですが、いわゆる「趣味」止まりを超えた学びになると、「え?何で今さら?」とか「収入に結びつくの?」「金持ちの暇つぶし?」みたいな冷ややかな反応が返ってくる気がします、年齢が上がれば上がるほど。

まぁ、そんなの気にしなければ良いだけと言えばそうなのですが、そういう反応を恐れて躊躇してしまう人も多いはず。

大学生の時、仲良しの一人は社会人入学した女性だったので、実は20歳近く上だったのかもしれませんが、ちゃん付けで呼んでいました。
そして、学年的には後輩に、自分の母とそう変わらないくらいのママさん学生がいました。彼女は、毎朝、娘さんのお弁当を作ったり家事もこなして、フルタイムで学校に通っていました。我が校名物の鬼のように課題の出る英語プログラムも、しっかりこなしていて、彼女を見ていると「あぁ、課題ができないとか、もう何の言い訳もできません」と誰もが尊敬していました。

何を言いたいかと言うと、年齢が違っても、育った背景が違えど、だからこそ、お互いに良くも悪くも刺激を及ぼすのではないかと。

〜〜

Learning for wellbeing 
(よく生きるための学び)

学校機関から離れると、多くの日本人は、特有の「お勉強後遺症」があるのか、勉強なんてうんざり、コリゴリとなってしまう。

けれど、学びたいことが出てきたら、夏休みの自由研究みたいなノリで始められたら良いと思う。

そして、その人の好奇心の芽がその人らしく伸ばせていける環境があれば良いと思う。その考え方は違うよ!と潰されるのではなく、むしろイイねイイねとサポートされ、伸ばされる環境。

テーマを決めて、自分自身でどんどん探求していく。

「生涯学習」という言葉が、今は一番認知度が高い言葉なのかな。

個人的には学ぶことが楽しくなれば、人生の幅も広がる気がするし、子どもたちにも、「学ぶこと、探求することって楽しいよ〜!」って心から言えると思うのです。

料理、秘密基地作り、パチンコ、散髪、本を読む、散歩、穴掘り、デイトレ、山登り、ぬいぐるみ作り、ランニング、何でも良いんだよ!


学ぶことは、ワクワクすること。

学ぶことは、遊ぶことでもある。

遊ぶことは、学ぶことでもある。

大人になってからも、学ぶことで、新しい価値観や人々に会う。初めは違和感だし、最後まで違和感だったら(笑)、この世界は合わなかったのだと知るし、逆に心地良ければ新しい私の居場所と知れる。

また、私の好奇心や興味に対して、丁寧に応えてくれたり、褒めてくれたり、励ましてくれる先生や仲間などの存在も、また私の成長を後押ししてくれる重要な環境。

「先生」になるつもりは、(キライだから 笑)将来的にも毛頭ないのですが、学ぶことや場づくりなどは好きなので、企画運営する立場になった時、上に書いたようなことを根底にした場の空気感を生み出せるようにしたいなと思っています。





























ふらっと旅人 / Flat Tabibito

どこか遠くへ、 「ふらっと」旅をした時のこと。 日々の暮らしの中でも、 「ふらっと」入った新しいお店、 「ふらっと」気の向くままに歩いて巡り合った景色。 遠くのどこかも、すぐ近くのあの場所も、 私にとっては同じ旅をすること。 「ふらっと」軽やかな気持ちで、そして、日常も、非日常と捉えられがちな旅先も、実はひとつながりなのだよ、という意味を「flat」に込めて、綴っていきます。

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